三千家の成り立ち
6.  千利休
7.  利休の後嗣
8.  千家の再興
9.  千宗旦
10.  宗旦とその息子たち

宗旦とその息子たち
 宗旦には、先妻の子である長男の閑翁宗拙(かんおうそうせつ;1592〜1652)、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ;1593〜1675)、それに後妻の子である三男の江岑宗左(こうしんそうさ;1613〜1672)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ;1622〜1697)の四人の息子がありました。
 長男の宗拙は、加賀前田家に出仕しますが、すぐ辞職。宗旦に勘当されて千家を出て正伝寺に奇遇しますが、のちには許されたともいわれ、宗拙作の茶杓など、今日に伝わるものもあります。京都西賀茂の正伝院に墓があります。武者小路千家所蔵の閑翁宗拙の好みの鉄雲龍風炉と雲龍釜の天明4年(1784)の年号のある極め書きに「此鉄雲龍風炉ハ千宗旦ノ惣領子閑翁宗拙ト申人ノ好ナリ。右宗拙阿州茶堂ニテ勤被居候所大ノ隠者ニテ隙ヲ取リ京都ニ一翁宗守ノ世話ニテ住居。茶道ノ上手名人ナリ。後西加茂ノ正傳寺瑞仙禅庵ニ一性茶ヲ楽此立波ノ風炉ヲ好。」(財団法人官休庵『起風』第25号)
 次男の宗守は兄宗拙と共に先妻の子で、武者小路にある塗師・吉文字屋、吉岡与三右衛門のもとへ養子に出され、吉岡甚右衛門(よしおかじんうえもん)と名乗り塗師を業とします。
 三男の江岑宗左は、『武辺咄聞書』に「宗旦子宗左と云。宗佐、寺沢志摩守・生駒壱岐守に仕、後は紀州に奉公。」とあるように、はじめ肥前唐津藩寺沢家12万3千石に出仕しますが、唐津藩寺沢家が島原の乱(1637〜1638)の責で減封され失職します。その1年半後の寛永16年(1639)讃岐高松藩生駒家17万3千石に出仕しますが、生駒家はお家騒動の責で讃岐17万3千石を没収、出羽由利1万石に転封され再び失職します。 その後寛永19年(1642)、徳川御三家の一つ、紀州徳川家55万5千石に茶堂として召し抱えられました。のちに、千家の家督を継ぎ、表千家となります。
 四男の仙叟宗室は、幼名を長吉郎といい、はじめ二代将軍秀忠,三代将軍家光の侍医でもあった野間玄琢(のまげんたく;1590〜1645)について医学を学び玄室と称しました。しかし、正保2年(1645)玄琢の急死に会い、父宗旦のもとに戻ります。
 宗旦は、野間玄琢に弟子入りしていた玄室が帰ったのを機会に、隠居します。翌正保3年(1646)、「不審庵」を三男の江岑宗左に譲り、その屋敷の北裏に別に隠居屋敷と今日庵を建て、玄室を連れて移ります。のち、この隠居屋敷と茶室「今日庵」は仙叟宗室に譲り渡され、裏千家となります。
 次男の宗守は、その後塗師の業を女婿の中村八兵衛(千家十職 初代中村宗哲;1617-1695)に譲り、千氏に復して、武者小路小川東入に居を構えます。その後は茶人としての道を歩み、慶安4年(1650)58歳の時、大徳寺185世、玉舟和尚から一翁宗守の号を授かり、最初、陽明家、近衞家に、その後寛文4年(1664)讃岐高松藩の百俵十人扶持茶道頭格となります。(『高松藩士由緒録』)

 四男の仙叟宗室(玄室)は、慶安4年(1651)加賀前田家に召し抱えられます。、この年の8月に宗室と改名したとされます。

 次男の宗守は、寛文7年(1667)松平侯の茶堂としての仕事を隠退し、武者小路の地に茶室「官休庵」を建てました。
 この茶室の名である官休庵はそのまま家を代表する名となり、その所在地から武者小路千家と呼ばれるようになります。

 
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