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三千家の成り立ち
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6. 千利休
7. 利休の後嗣
8. 千家の再興
9. 千宗旦
10. 宗旦とその息子たち |
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千宗旦
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『茶話指月集』に「宗旦、始めは柴阜(柴野の大徳寺)の喝食にて有りしが、秀吉公度々宗易へ御成の時分、御給仕相勤め、公御身知りあるにより、宗易跡の数寄道具、かの喝食にとらせよ、との上意にて、長櫃三棹拝領す。世に利休所持の道具といえるは、おおくは千家より出でて、宗旦拝領のうちなるべし。」とあるように、宗旦(1578−1658)は、
幼名を修理(すり)といい11歳の頃から大徳寺三玄院に喝食(かっしき;見習いの僧)として、春屋宗園(しゅんのくしゅうえん)のもとで修業していましたが、天正19年(1591)
14才の時、祖父利休の死にあい、文禄三年(1594)頃父少庵が京都に帰り家を再興すると、宗旦も家に戻り,利休道具も千家に戻ることになります。 |
慶長5年(1600)頃家督を継ぎ、千家を継ぐことになった |
利休亡き後、天下の茶の湯は、古田織部(1544〜1615)のもとにあり、、『多聞院日記』の慶長4年(1599)3月22日の条に「伏見より織部と云茶湯名人来候」と見えるところから、すでに当時利休亡き後の茶の湯の名人として名を世に知られていたことが分かります。「織部好み」の茶が一世を風靡し、「茶湯名人」「天下の宗匠」として2代将軍徳川秀忠の茶道指南ともなります。 |
慶長20年(1615))6月11日古田織部(72)が、豊臣方に内通した罪を問われ、伏見の自邸で切腹したあと、織部の後に続いたのは、織部の弟子であった小堀遠州(1579〜1647)で、3代将軍徳川家光の茶道指南となります。 |
寛文5年(1665)11月に片桐石州が将軍家綱 の御道具奉行を務め、「石州三百ケ条」の献上により将軍家茶道指南の地位を獲得すると、将軍に倣って多くの大名・武家が石州流に改めるようになります。
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慶長6年(1601)大徳寺の春屋宗園より「元叔」の号を授けられますが、自身は「元伯」号を使っている。
別号咄(咄)斎,隠翁,寒雲など。
宗旦は、先妻との間に長男の閑翁宗拙(かんおうそうせつ;1592〜1652)、次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ;1593〜1675:武者小路千家)、後妻との間に三男の江岑宗左(こうしんそうさ;1613〜1672:表千家)、娘くれ(久田宗全の母)、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ;1622〜1697:裏千家)をもうけています。
宗旦の長男宗拙、次男宗守が生まれたのは、宗旦が大徳寺にいた頃になり疑問が呈されていますが、納得できる説はありません。ただ近年武者小路千家より新説が提示されています。
慶長19年(1614) 父、少庵が死亡。
元禄4年(1618)ころ、一畳半座敷を作り、侘び茶の湯の宣揚をはかるが、経済的には不如意。「乞食宗旦」と呼ばれたが、仕官しなかった。
「仕官することを館入り(やかたいり)と称しますが、しかし宗旦は、いくら貧乏してもついに館入りをしなかったといわれています。」
寛永10年(1633) 新築の一畳半座敷に、太閤近衛信尋を迎えて茶会。その後もたびたび御成り。これより、宗旦の名があがる。大徳寺の長老が、宗旦をひきたてる。沢庵が宗旦を柳生但馬守宗矩にひきあわせる。
寛永19年(1642) 宗左が、紀州徳川家に有り付く。弟子の四天王も仕官、または、自立し、名をあげた。
正保2年(1645)医者の野間玄琢に弟子入りしていた宗室が帰ったのを機会に、隠居。翌年、今日庵を建てて、移る。万治元年(1659)死亡。
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やがて宗旦は徳川家をはじめ、諸大名から茶頭として招かれたがこれをかたくなに断ります。祖父利休が、秀吉の禄を喰んでいたために自刃に追い込まれたことを強く感じていたためといわれるが、茶の本来というものは市井の暮らしのなかにこそあり、大名のぜいたくな生活から侘びの精神は生まれない、と信じたからであろう。したがって宗旦の生活は相当に苦しく、「乞食宗旦」と呼ばれていた。また、貧しいが故にますます侘びに徹し、茶禅一味の心境へ到達したといえます。17世紀に入り、社会は戦国の動乱期から、徳川幕府の治世による江戸時代へと移り変わりました。こうした安定した社会情勢は、茶の湯の世界にも変革をもたらします。宗旦には4人の息子がいました。自身の姿勢とは対照的に、安定した時代背景をもとに茶道の社会的立場を考えた宗旦は、3人の息子を茶堂として大名家に出仕させることになります。 |
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通説では、一翁宗守の誕生は文禄2年(1593)、宗旦16歳の子とされているが、これは一翁の没年の延宝3年と享年83歳から逆算されたものと思われ、その根拠として官休庵3代(6世)真伯筆の一翁の辞世に「喫飯喫茶 八十余年 本来何処 虚空大千 本来に立帰りても何かせん とは思へとも是非におよはす」とあり、また表千家の了々斎が紀州徳川家に出した『千家系譜』に「延宝3年乙卯十二月十九日病死致候 年齢相知不申候」とあるところに「八十三歳死」との加筆があり、これが一翁享年83歳を定着させたものか。一翁宗守の養家、吉岡家の菩提寺である慧光寺の過去帳には「吉岡甚四郎父七十二才 一翁宗守居士 延宝四丙辰 正月」とあり、これによると一翁宗守の生年は慶長10年(1605)となり、宗旦28歳の子となる。(財団法人官休庵『紀風』第36号) |
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