茶の湯の歴史
6.  千利休
7.  利休の後嗣
8.  千家の再興
9.  千宗旦
10.  宗旦とその息子たち

北山文化・東山文化
 『山上宗二記』 に 「「夫れ、茶湯の起こりは、普光院殿足利義教)・鹿苑院(足利義満)の御代より、唐物・絵讃等、歴々集まり畢んぬ。其の頃御同朋衆善阿弥・毎阿弥なり。」 とあるように、足利義満の金閣寺に代表される「北山文化」の時代になると茶室や茶会の趣向も次第に変化してきました。
 喫茶の亭と呼ばれた茶室も、このころは「会所」といわれましたが、これは歌合わせや連歌の会所の転化と思われます。
 道具の飾りつけはそう変化ないようですが、『古今和歌集』や『和漢朗詠集』の趣向をとり入れた風雅な闘茶となっています。
 また、公家の茶寄り合いでは、茶の本非を当てることを目的としない、ささやかな茶事が開かれるようになりました。
 一方、室町中期になると、淋汗茶の湯が催されるようになります。
 淋汗(林間とも書く)とは、汗を流す程度の軽い入浴のことで、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものです。
 奈良の興福寺大乗院門跡の記した 経覚私要抄』 の文明元年(1469)5月23日の條に、「今日林間(淋汗)初之、召仕者共並古市一族若党相交可焼之由仰付了。於風呂は茶湯在之、茶上下二器(一ハ宇治茶・一ハ雑茶)、白瓜二桶、山桃一盆、又索麺在之、荷葉桐副之置之、予入畢、則有一献、上後古市以下一族若党長井、横井、厳原者共大方百五十人計入云々、男党悉上て後、古市女中入了」、同7月3日には、「今日有林間、又有茶湯、又披立花、風呂中荘観見物なる者也」とあり、更に同10日には、「又懸字二幅東西懸之、立花又水舟之上に小屏風を立て、懸絵一幅在之、花二瓶、香炉一置之、湯舟の天井の上におしまわして花を立、郷者共衆人令群集見物」などとあります。
 風呂場に屏風をたて、絵や香炉・花瓶で飾り立て、茶席には掛け字を二幅掛け、花を飾り、客が風呂からあがると闘茶がはじまり、点心には果物と素麺が出されています。また、これを見物するひとびとが遠方から集まっています。
 なお利休以後、風呂の茶は完全になくなったわけではなく、江戸後期の数寄大名・松平不昧の茶室「菅田庵(かんでんあん)」の待合いには蒸風呂がついており、淋汗の名残が見られます。
 室町中期の「東山文化」の時代になると、貴族の建築であった書院造りが住宅として普及し、会所で催されていた茶会が書院の広間で行われるようになり、飾りも会所飾りから書院飾りというものに変化し、台子に茶器を飾りつけて茶を点てる方法も考案されます。

 なお、書院飾りは南北朝時代の佐々木導誉(ささきどうよ:1296-1373)から始まったといいます。
  『太平記』によれば、「ここに佐渡判官入道々誉都を落ける時、わが宿所へは定てさもとある大将を入替んずらんとて、尋常に取したゝめて、六間の会所には大文の畳を敷双べ、本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至まで、一様に皆置調へて、書院には義之が草書の偈・韓愈(かんゆ)が文集、眠蔵(めんざう)には、沈の枕に鈍子(どんす)の宿直(とのゐ)物を取そへて置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿に懸ならべ、三石入ばかりなる大筒に酒を湛へ、遁世者二人留置て、誰にてもこの宿所へ来らん人に一献を進めよと、巨細を申置にけり。楠一番に打入たりけるに、遁世者二人出向て、定て此弊屋へ御入ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉禅門申置れて候と、色代(しきたい)してぞ出迎ける。」とあり、佐々木導誉が南朝方の軍勢に攻められて都落ちするとき、会所に畳を敷き詰め、本尊・脇絵・花瓶・香炉などの茶具、また王羲之の草書の偈と韓退之の文を対幅にした茶道具一式を飾りつけたのが「書院七所飾り」の始まりといわれています。。

 さて、書院茶の時期には専用の茶室というものはありませんでした。
 書院の部屋は連歌や能といった文芸・芸能共通の場であり、したがってそこで茶会が催されたとしても、専用の茶室とはいえないし、ましてや後年の茶室のように炉も切られていませんでした。
  つまり、書院茶では、「点茶する場所」と「喫茶する場所」とが分離している、いわゆる点て出しの茶でした。足利義政の東山山荘には「茶湯の間」と呼ばれる点茶所がありましたが、そこで同朋衆 の手によって点てられた茶が、書院へ運ばれていたのです。
 足利義教・義政の同朋衆の能阿弥 は唐物を日本風の書院に飾りつける「書院飾り」を完成させ、仏に茶を献じる仏具である台子を茶事に使う「台子飾り」も考案し、また柄杓の扱いに弓の操方を取り入れるなど武家の礼法を取り入れたり、能の仕舞の足取りを道具を運ぶ際の歩行に取り入れて、書院茶の作法を完成させました。

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同朋衆(どうぼうしゅう)
 室町時代の書院茶を考えるときに欠かせないのが、将軍に近侍して雑務にあたった同朋衆の存在である。 その元をたどると、鎌倉時代末期から南北朝にかけて武将に同行した時宗の僧(=時衆)、つまり従軍僧に行き着く。従軍のおもな目的は武将の最後にあたってその菩提を弔うためと、負傷したものを治療することであった。
  鎌倉幕府が楠木正成を千早城に攻めたとき、従う時衆300人という記録がある。
  こうした従軍僧のなかには、連歌や舞いやそのほか多芸のもち主がいて戦いの合間に彼らの才能が遺憾なく発揮される場面もあった。
 同朋衆は、こうした前史を引き継いで室町初期に幕府の職制に次第に組み込まれ、やがて将軍の近くにいて芸事をはじめ、もろもろの雑務を担当するようになった。同朋の名の由来は、「童坊」あるいは宗教的な意味がより強い「同行同朋」からきたものといわれる。
  また注目すべきは、必ず「阿弥」号を有していることである(阿弥号は時衆の独占物ではないが、同朋衆は必ず阿弥号を持っていた。またその由来は「南無阿弥陀仏」の中2文字をとったといわれる)。
  猿楽の音阿弥、作庭の善阿弥、唐物奉行を担当した能阿弥・芸阿弥・相阿弥、香、茶の千阿弥、立花の立阿弥などが、足利義教・義政の同朋衆を務めた。
  同朋衆はいろいろな分野に存在したが、茶に関係した者を「茶同朋」といった。また、本来は室町幕府の職制のひとつであったが、信長の側近として本能寺でともに討ち死にした針阿弥、秀吉の茶事に奉仕した友阿弥といった、武将お抱えの同朋衆もいた。
  同朋衆のすべてが阿弥号をもっているということは、同朋衆の起源が時衆から派生したことを物語っている。
 実際にも、一遍上人による時衆ネットワークの拡張は、一方で踊り念仏という芸能性を各地に広げるとともに、他方では賦算などによる"約束経済文化"の可能性のようなものを広げていった。そのなかから阿弥号をもつ者が次々に生まれていった。何かの職能性にすぐれた者たちである。ただし、かれらはいずれも法体である。僧体である。ということは遁世の者だったということだ。事実、「トモニツレタル遁世者」や「取次の御とんせい人」という言葉で、当時の文献はかれらのことを表現した。
 一方、将軍家や有力武家たちのあいだでは、殿中や会所の雑役にこのような阿弥号をもつ者たちを、最初は雑役に、ついでは庭者や配膳に使うようになっていった

足利義教(あしかが よしのり)
 足利義教、1394〜 1441(応永元年〜嘉吉元年)室町幕府 6代将軍(1428〜1441)。3代将軍足利義満の子。はじめ義宣と称したが義教に改めた。

  足利幕府将軍の子として、慣例により仏門に入って義円と名乗り青蓮院門跡にあった義教は、正長元年(1428年)、兄4代将軍足利義持とその子5代将軍足利義量が急逝したため、義持の遺言と管領畠山満家の発案によって、石清水八幡宮で行われたくじ引きで兄弟の梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の中から将軍に選ばれることになった。このことから、義教は、「籤引き将軍」と呼ばれるようになる。

足利義光(あしかが よしみつ)
 足利義光、1358〜1408(南朝:正平13/北朝:延文3〜 応永15)室町幕府の第3代将軍(1368年〜1394)。幼名を春王。2代将軍足利義詮の子。正室は大納言日野時光の娘である日野業子。
 1401年(応永8年)に、中国の明朝に対し博多の商人肥富と僧祖阿を使節として派遣し、明の建文帝により、それまでの南朝の懐良親王に代わって日本国王に冊封され、明の皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易を1404年(応永11年)から始めた。1397年(応永4年)には京都北山に金閣を中心とする山荘を造営した。この時代の文化を、北山文化と呼ぶ。

善阿弥(ぜんあみ)
 善阿弥、1386〜1482(元中3〜1482)出自は不明。いわゆる「河原者」であったが、8代将軍足利義政に寵用されて、1458(長禄2)年より蔭涼軒を初めとして、1461(寛正2)年には花の御所の泉殿の築庭に活躍したほか、当時流行した盆石にも名を遺しており、相国寺諸塔頭や、1462(寛正3)年の高倉御所の作庭の可能性もあるとされる。また、1463(寛正4)年以降は大乗院・興福寺諸院の作庭に従事した。1482(文明14)年、97歳で没。 東山山荘の作庭にあたった善阿弥とともに頻出する。

経覚私要鈔(きょうがくしようしょう)
 経覚(きょうがく)(1395〜1473年)、関白九条経教の子で興福寺大乗院門跡の経覚が応永22年(1415年)から文明4年(1472年)までを記したものである。自筆原本他写本が現存。 内容は寺内の様子や寺領支配などを中心とし、その他に筒井氏や古市氏などの動向を含めた大和の情勢、京都の動静から芸能にまで及び、中世社会経済史研究上の基本史料として極めて重要である。

能阿弥(のうあみ)
 能阿弥、1397〜1471(応永4〜文明3)越前朝倉家の家臣、中尾真能(さねよし)。法名は真能、号は鴎斎、または春鴎斎。
 将軍家の同朋衆として足利義政に仕え、中国から渡ってきた書画骨董の鑑定や蒐集を行い東山文化形成の上で重要な役割を果たした。
  この時代に能阿弥が鑑定し、将軍家に収めた書画骨董は『東山御物』として貴重なものである。
  画家としては周文について水墨画を学んだと伝えられている。
  そして息子の芸阿弥(名は真芸,1431〜85)・孫の相阿弥(名は真相,1472〜1525)の三代にわたり「阿弥派」という流派を形成した。
  代表作は『白衣観音像』。また和歌にも優れ,連歌もたしなみ,宗祇が編さんした『新撰菟玖波集』にも取り上げられている。
  さらに,茶道にも通じ,足利義政に茶の宗匠として珠光を推したりもした。彼が鑑定し集めた作品について著した『君台観左右帳記』は相阿弥がまとめた。

 

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