茶の湯の歴史
6.  千利休
7.  利休の後嗣
8.  千家の再興
9.  千宗旦
10.  宗旦とその息子たち

千利休
千利休(1522〜1591)は、大永2年(1522)堺の納屋衆である魚屋(ととや)田中与兵衛の子として生まれ、与四郎と称しました。若くして茶の湯に親しみ、『松屋久政筆記』によると、天文6年(1537)2月13日に京都で朝会を開いており「此年、与四郎十六歳」とあります。
『南方録』には「宗易は与四郎とて、十七歳の時より専ら茶を好み、かの道陳に稽古せらる。道陳の引き合わせにて紹鴎の弟子になられしなり。」とあり、17歳で東山流の書院茶をくむ北向道陳に書院・台子の茶を学び、道陳の紹介で武野紹鴎の弟子となり珠光流の草庵の茶を学びます。
紹鴎に入門する際に大徳寺に入り剃髪しますが、春屋宗園の『一黙稿』に「宗易禅人之雅称、先師普通国師見号焉者也(宗易禅人の雅称、先師普通国師号せらるるなり)」とあるところから、このとき大林宗套より「宗易(そうえき)」の号を与えられたのではないかといわれます。
永禄11年(1568)に足利義昭を奉じて上洛した信長が堺に2万貫文の矢銭(軍資金)を課すと、町衆は抗戦派と和平派に分かれ、このとき和平派として信長に近づいた今井宗久、津田宗及と親しかった関係から、宗久、宗及とともに茶頭として信長に仕えるようになり、『千利休由緒書』」によれば信長より御茶頭を仰せ付けられ三千石を給されたとあります。
『今井宗久茶湯書抜』には、永禄13年(1570)4月2日今井宗久が信長の御前で宗易の点前で薄茶を賜り、さらに天正元年(1573)11月24日京都妙覚寺で信長の茶会が催されたときには、宗易が濃茶の点前を行った事が記されます。
天正2年(1574)3月28日奈良に下向した信長は、正倉院御物の名香「蘭奢待」を一寸八分切り取りますが、それを津田宗及と宗易の二人だけに下賜しており、太田牛一の『信長公記』の天正3年(1575)には「十月廿八日、京・堺の数寄仕り候者、十七人召し寄せられ、妙光寺にて御茶下され侯。・・・茶道は宗易。各生前の思ひ出、黍き題目なり。已上。」とあり、これにより宗易が信長に仕え茶頭となっていたとされます。天正4年(1576)に安土城が竣工し、翌5年(1577)閏7月7日には、宗易を茶頭として安土城の茶席開きが行われています。
天正10年(1582)6月2日、信長が明智光秀の謀反により本能寺で横死したあと、宗易は秀吉に仕えることとなります。
宗易と秀吉の関係については、元亀末か天正初(1573頃)の、木下助兵衛尉宛ての秀吉と抛筌斎宗易の連署状が初見とされます。「抛筌斎(ほうせんさい)」の斎号もこれを初見とし、筌(魚を採る篭)を抛(なげう)つということろから、魚屋の業を棄て茶湯者として立つという意があったのではとみる向きもあります。
『今井宗久茶湯日記抜書』には、天正10年(1582)11月7日に山崎で秀吉の茶会が開かれ、宗及、宗易、宗久、宗二の四人が招かれおり、『津田宗及茶湯日記』の天正11年(1583)5月24日の条には、羽柴筑前守秀吉の朝会に「茶堂宗易」と見え、この頃までには秀吉の茶頭になっていたとされます。
天正13年(1585)7月11日に秀吉が関白になると程なく、宗易を利休居士と号して随行させ参内し禁裏御茶会を開きます。これを機に宗易に「利休」という居士号が勅賜されます。古渓宗陳の『蒲庵稿』に「泉南乃抛筌斎宗易、廼予三十年飽参之徒也。禅余以茶事為務。頃辱特降倫命、賜利休居士之号。」とあります。
この頃の利休の大阪城における権勢を伝えるものとしては、天正14年(1586)4月5日に、秀吉の弟である羽柴秀長が大友宗麟へ「内々之儀者宗易、公儀之事者宰相存候。御為ニ悪敷事ハ不可有之候(内々の儀は宗易、公儀の事は宰相(羽柴秀長)存じ候)」と述べ「宗易ならてハ関白様へ一言も申上人無之と見及申候(宗易ならでは関白様へ一言も申しあぐる人これなしと見及び申し候)」ということが『大友家文書録』に見えます。
天正15年(1587)7月14日秀吉が九州平定を終え大阪に凱旋し、7月28日には北野大茶会の高札が立てられます。
定 御茶湯の事   一、北野の森におひて、十月朔日より十日の間に天気次第、大茶湯御沙汰なさるるに付て、御名物共不残御そろへなされ、執心之者ニ可被拝見ために可被御催候事   一、茶湯於執心者、又、若党・町人・百姓以下ニよらず、一釜、一つるべ、一のミ物、茶こがしにても不苦候条、ひつさげ来、仕かくべき事   一、座敷之儀ハ松原にて候条、たたミ二畳、ただし、わび茶ハとぢつけにても、いなはきにても、くるしかるまじき事   一、日本之儀ハ不及申ニ、から国の者までも、数奇心がけ在之者ハ可罷出事付所の儀ハ次第不同たるべき事   一、遠国の者まで見セらるべきため、十月朔日まで日限被成御延事   一、如此被仰出候儀者、わび者を不便ニ被思召ての儀ニ候条、此度、不罷出者ハ、於向後こがしをもたて候事、無用との御異見候、不出者の所へ参候者も同前、ぬるものたるべき事   一、わび者においてハ、誰々遠国によらず、御手前にて御茶可被下之旨、被仰出候事 以上
天正17年(1589)大徳寺三門・金毛閣の上層が、千利休の寄進によって完成します。

天正19年(1591)正月22日羽柴秀長が没し、一ヶ月もたたぬうちに大徳寺三門に収めた利休の木像が問題化し、利休に蟄居が命ぜられ、2月13日利休は堺に下ります。『千利休由緒書』によると、出発に際し「利休めはとかく果報乃ものそかし 菅丞相になるとおもへハ」という狂歌一首を竪紙に書き、上書きに「お亀におもひ置く 利休」と書いたといいます。

堺に下る利休を細川忠興と古田織部だけが密かに淀の渡しまで見送りに来たことが、松井佐渡守康之宛の利休自筆書状に 「態々御飛脚、過分至極候。富左殿、拓左殿御両所、為御使、堺迄可罷下之旨、御諚候条、俄昨夜罷下候、仍、淀迄羽与様、古織様御送候て、舟本ニて見付申、驚存候、忝由頼存候、恐惶謹言  二月十四日 宗易(花押)   松佐様  利休」と見えます。
また、大政所や北政所が密使を遣わし命乞いをするから、関白様に詫びるようすすめたが「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」と断ったことが『千利休由緒書』に記されています。
2月25日には利休の木像が聚楽大橋に晒されます。利休は遺偈を記すと翌26日上洛を命じられ、上杉勢三千の兵が取り囲む京都の自宅に戻り上使を待ちます。
天正19(1591)年旧暦2月28日、検使として尼子三郎左衛門、安威攝津守、蒔田淡路守の三人が使わされ、京都葭屋(よしや)町の屋敷で切腹します。
     遺偈
人世七十力〓(口に力)希
咄 吾這寳劒祖仏
共殺
 提ル我得具足の
 一太刀今此時そ
 天に抛
 天正十九仲春
 廿五日 利休宗易居士   花押
興福寺多聞院英俊の『多聞院日記』の天正19年2月28日の条に「数寄者の宗易、今暁腹切りおわんぬと。近年新儀の道具ども用意して高値にて売る。売僧の頂上なりとて、以ての外、関白殿立腹」とあります。
『北野社家日記』には「廿八日、今日大雨降、カミなりなる、あられ、大あられ也・・・廿九日、宗ゑきと申者、天下一之茶之湯者ニて候つれ共、色々まいす仕候故御清はい有之也、大徳寺三門之こうりう仕、末代迄名を残と存木そうを我すかたニ作、セきたをはき、つゑをつき□有之、いわれ関白様へ申上候へハ、猶いよいよさいふかく成申候間、くひをきり、木そうともにしゆらく大橋にかけ置候也、大徳寺之長老衆も両三人はた物ニ御あけ候ハんと儀候つれ共、大政所様・大納言殿こうしつ、各上様へ御詫言により長老衆御たすけ分也、玄以法印・山呂玄羽御はな分也、木そうハ一日○よりかかり申候」と見えます。
また、『武辺咄聞書』には「秀吉公冨田左近を以父利休に被仰出 鵙屋か後家を 聚楽へ御宮仕させ候へと頻りに被仰遣けれ共、利休は少も不肯 娘を商売物にして我 身を立ん事恥辱難遁と終に御請申上されけれは、秀吉公義理の筋目は御破難被成けれ 共、無わり御心入の叶はぬ事を残念に思召事人情なれは、御心底には深く挿結て、一両 年過て、利休運の尽にや、大徳寺古渓和尚と相議して山門を再興し棟札を打、其上に利休木像を造り山門に安置せり。其木像は立像にしてつぶぎりの紋の小袖八徳を着せ、角頭巾を右へなけさせ、尻切を履せ、杖をつき、遠見仕たる体をそ作りける。其事世に無隠。秀吉公御耳に達し、内々悪しと思召折節なれは、讒言も指つとひ、利休近年茶具の目利にも親疎の人々により私有」由をそ申上る。父子の間さへ遠さくる讒言也。いかに況君臣の間をや。讒言度重りしかは、天正十九年二月廿八日利休御成敗に極り、被仰出けるは大徳寺の山門の上に己か木像に草鞋をはかせ置。此山門は天子も行幸、親王摂家も通り給ふに、其上に如此の不礼の木像を置事、絶言語次第也。又定茶具の品を定るにも依怙有由被聞召間、御成敗被遊候由にて、尼子三郎左衛門・奥山佐渡守・中村式部少輔検使にて利休か宿所に至る。利休は少も不騒、小座敷に茶の湯を仕かけ花を生茶を点し、弟子の宗厳にも常の如く万事を申付、扨茶湯終りて、阿弥陀堂の釜鉢開の茶碗 石燈篭をは細川越中守忠興方へ形見に遣し、又自分茶杓と織筋茶碗は弟子の宗厳にとらせ、利休は床の上に上り、腹十文字に掻切、七拾一歳にて終りぬ。宗厳利休の首を直綴に包腰掛へ持出し、三人の上使に渡候。秀吉公則石田治郎少輔三成に被仰付、大徳寺山門に上け置たる木像を引出し、利休か首をかんなかけにのせ、木像を柱にくゝり付、利休か首を木像に踏せ、一条戻り橋に獄門に梟て被曝。毎日見る者市の如し。」とあります。

 
<<Back     Return    Next>>