三千家の成り立ち
6.  千利休
7.  利休の後嗣
8.  千家の再興
9.  千宗旦
10.  宗旦とその息子たち

利休の後嗣
 千利休(1522-1591)には、眠翁道安(1546-1607)、少庵宗淳(1546−1614)の2人の息子がいました。
 道安は、利休の先妻 宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ;〜1577)の子として生まれ、初めは紹安(じょうあん)と称し、利休とともに豊臣秀吉(1537-1598)の御茶頭八人衆の一人に加わっています。
 『山上宗二記』には、「関白様へ 召し置かるる当代の茶の湯者 田中宗易(千利休) 今井宗久 津田宗及 山上宗二 重宗甫 住吉屋宗無 万代屋宗安 田中紹安(千道安)」とあります。
 また、『茶話指月集』に「床を四尺三寸に縮めたるは道安にてありしが、休(利休)のよしとおもいけるにや、その通りにしつる也。灰さじも、むかしは竹に土器などさしはさめるを、安(道安)、金にして柄を付けたり。休(利休)、はじめは、道安が灰すくい、飯杓子のような、とて笑いけるが、是も後はそれを用ゆ。」と見え、利休も道安の創意を認め、「秀吉公、宗易(利休)へ、大仏の内陣をかこいて茶の湯すべき者は誰ぞ、と御尋ねありしに、易(宗易)、しばらく思案して、道安が仕るべきよし、申し上ぐる。」とあり、利休が道安を高く評価していたことが窺えます。のち、道安と改め、不休斎(ふきゅうさい)、眠翁(みんおう)と号します。
 少庵は、利休の後妻となった宗恩(しゅうおん;実名おりき;〜1600)の連れ子で、幼名を猪之助といい、後に、吉兵衛、四郎左衛門と称し、始め宗淳、後に少庵と号します。父は宮王三郎三入という鼓打といわれていますが、確かな記録は残されていません。天正6年(1578)母宗恩が利休の後妻となったのを機に、利休の養子となり、利休の娘亀を妻とします。
 天正19年(1591)旧暦2月28日、京都の葭屋町の自邸で千利休が70歳で自刃したとき、道安と少庵は、ともに46歳で、道安はひそかに堺を逃れて飛騨の金森長近の許に身を寄せたとされます。
  『武辺咄聞書』には、「利休か嫡子 道庵は飛騨へ逃隠れ、鵙屋後家も行方なく成ぬ。少庵は京都に残候を、大政所殿御詫言 にて命御助け屋舗迄被下ける。」とあります。
  少庵は、会津の蒲生氏郷の許に遁れたとも、預けられて蟄居を命ぜられていたともいわれ、会津若松には少庵が氏郷のために建てた「麟閣」という三畳台目の茶室があります。
  また、少庵と利休の娘の亀との間に出来た息子の元伯宗旦(1578−1658)は、利休が自刃したときには、大徳寺塔頭三玄院の春屋宗園(しゅんおくそうえん;1529〜1611)のもとで喝食(有髪の侍童)となっていました。

 
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