三千家の成り立ち
6.  千利休
7.  利休の後嗣
8.  千家の再興
9.  千宗旦
10.  宗旦とその息子たち

千家の再興
 利休切腹から3年後の文禄3年(1594)には、蒲生氏郷、徳川家康らの取り成しで、豊臣秀吉の勘気もとけ、少庵は京に戻ることを許されます。この秀吉の赦免の意を伝える徳川家康、蒲生氏郷の連署状は「少庵召出状」として知られ、現在も表千家に伝わります。
 京に戻った少庵は、本法寺前に地所を与えられ、千家の再興を果します。利休の跡を継いだ少庵は大徳寺前にあった利休の旧宅茶室を本法寺前に移します。これが現在の表千家の「不審庵」です。
 『茶話指月集』には、「権現様(徳川家康)・利家公(前田利家)、兼ねて宗易の事不便(不憫)がらせ給いて、よきおりとおぼし召し、小庵・道庵御免の御取成あそばされ下され、早速御ゆるし蒙り、その後、道庵を御前へめし、四畳半にて茶をたてさせ、上覧ありて、宗易が手前によく似たる、と御感に預かる。」、また「宗旦、始めは柴阜(柴野の大徳寺)の喝食にて有りしが、秀吉公度々宗易へ御成の時分、御給仕相勤め、公御身知りあるにより、宗易跡の数寄道具、かの喝食にとらせよ、との上意にて、長櫃三棹拝領す。」とあります。十五六歳の頃,父少庵が西山の西芳寺に「湘南亭」 を建てて隠居したので,宗旦はその跡を継ぎました。
 道安は、文録年間(1592〜96)には赦されて再び秀吉の茶道となり、慶長3年(1598)に秀吉が没すると、名を道安と改め堺に戻り利休の家を継いだようで、春屋宗園の『一黙稿』に「泉南の道安老人遠く白楮を寄せ、余に就いて雅称を需む。固辞すること克わず、これを字して眠翁と曰う・・・慶長五稔・・・」とあり、すくなくとも慶長5年には堺にいたことが知れます。
 また、『茶話指月集』 に 「ある時、道安、我 宗旦也 をつれて古織(古田織部)の茶の湯にゆきしが、亭主(織部)、鎖の間にて炭所望あり。安(道安)、灰土鏑をひきよせ、炉中をとくと直して後、炭を置く。その炭、ことに興に入る。予、帰路におよんで、織部は今の宗匠なるに、炉中の直し、以ての外に覚え候といえば、安(道安)、よし宗匠にもあれ、何にもあれ、炉中あしくては炭が置かれぬといいし。」 とあります。宗旦が織部を今の宗匠(当代随一の茶の湯の宗匠)と言っているところから、利休亡き後道安が赦されてからのことですが、織部や宗旦と交渉を持っていたことが知れます。
 慶長6年(1601)に細川家の茶頭として、宇佐郡水崎村で知行三百石を与えられ、慶長12年(1607)62歳で豊前の地で亡くなっています。

 
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