茶の湯の歴史
6.  千利休
7.  利休の後嗣
8.  千家の再興
9.  千宗旦
10.  宗旦とその息子たち

村田珠光と武野紹鴎
能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光 は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な「地下茶の湯」の様式を取り入れ,さらに大徳寺の一休宗純から学んだ禅の精神を加味して,精神的・芸術的内容をもつ茶道を作りました。
能阿弥が十八畳の書院座敷を用いたのに対し、珠光は四畳半の茶室を考案しました。当初、広い座敷を屏風で囲って区切ったので、後に茶室は「かこい」とも呼ばれます。茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを「限られた少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えたのでした。
東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云われています。
また、象牙や銀製でできた唐物の茶杓を竹の茶杓に替えたり、台子を真漆から木地の竹製に改めたりして、わびの精神を推し進めました。加えて、珠光は一休禅師から宋の圜悟禅師の墨蹟を印可の証として授かって以来、床の掛け物を仏画や唐絵に代わって禅宗の墨蹟を掛けるようになります。
 『南方録』には「四畳半座敷は珠光の作事也。真座敷とて鳥子紙の白張付、松板のふちなし天井、小板ふき宝形造、一間床也。秘蔵の墨跡をかけ、台子を飾り給ふ。其後炉を切て及台を置合されし也。大方書院の飾物を置かれ候へ共、物数なども略ありし也。」とあります。
なお、珠光の生涯や彼の佗び茶の性格に関する同時代の記録はほとんどなく,千利休の弟子である山上宗二が著した茶の湯の秘伝書『山上宗二記』によるところが大きいのですが、『山上宗二記』に「珠光の云われしは、藁屋に名馬を繋ぎたるがよしと也。然れば則ち、麁相なる座敷に名物置きたるが好し。」とあるとおり、わびたるものと名品との対比の中に思いがけない美を見出すところに珠光のわび茶の様子がみられます。
珠光は他界したあと、武野紹鴎 がわび茶を完成させることになります。
応仁の乱で京都が荒廃し、戦乱を避けた人々は自由都市堺の地へと集まっていきました。紹鴎も上洛し歌道を研究するかたわら村田珠光の流れを継ぐ茶人について茶の湯を学んでいましたが、31歳のとき堺に帰り、剃髪して紹鴎を号し茶の湯に専念します。
わび茶の精神を端的に表しているものとして「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」 という藤原定家の歌を紹鴎はあげた、と南坊宗啓の『南坊録』にあります。「侘ということ葉は、故人も色々に歌にも詠じけれ共、 ちかくは、正真に慎み深く、おごらぬさまを侘と云う。」と説き、茶道のわびとは「足らざることに満足し、慎み深く行動することである」としたのです。そして、珠光同様、茶室や茶道具の改革を行ない、藁屋根の四畳半に囲炉裏を切って茶堂とし、唐物の茶器から信楽、瀬戸、備前といった和風の茶器へとあらためます。
 『南方録』には「紹鴎に成りて四畳半座敷所に改め、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床の塗うちをうすぬり又は白木にし、之を草の座敷と申されし也。鴎はこの座に台子は飾られず。」とあります。
このようにして、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびと云う精神を持った「道」に昇華し、「茶道」と呼ばれるようになりました。

<<Back     Return    Next>>

村田珠光(むらたじゅこう)
 村田珠光(むらたじゅこう) 1422〜1502(応永29〜文亀2)奈良御門の村田杢市検校の子、11歳のとき称名寺の法林院に入り僧となったが、若くして茶を好み、当時流行していた奈良流という闘茶にふけり、20歳のころより出家の身を厭ひ、寺役を怠ったので両親と寺の両方から勘当され25歳にして還俗した。
 放浪ののち、奈良から上洛し商人として財をなし、大徳寺の一休宗純から禅を学んで茶禅一味の境地に至り、侘び茶を完成、わが国の茶祖と称される。
 珠光は、茶の湯の場所における人間平等、茶会を成立させるために必要な客振り・亭主振りの重要性、酒色の禁止などを説き、それまでの通俗的、遊興的な茶を一新したが、もっとも重要な点は、茶室と茶道具を改良し、まったく新しい創造を試みた点にあるだろう。
 それまでの書院の広間にかわり、草庵の四畳半こそ真の座敷であるとしたことや、数寄屋飾りの法式の考案、床の掛け物を唐物から名禅の墨蹟を第一としたこと、また茶杓も象牙や銀ではなく竹にするなど、唐様の茶を完全に和風へと改めた。

武野紹鴎(たけのじょうおう)
 武野紹鴎 1502〜55(文亀2〜弘治1)村田珠光の茶の湯を徹底して深化し,佗び茶の根本を説いた戦国時代の茶人。珠光の四畳半茶の湯をいっそう清潤化し,小座敷のうちに心のやすらぎを求める。これが紹鴎の創始になる佗び茶の真髄といわれる。津田宗久・今井宗久は高弟にあたる。次代の千利休らに強い影響を与えた。
 紹鴎の父武田信久は若狭守護大名武田氏の後裔で、諸国遍歴ののち泉州堺に定着、武野と姓を改めた。三好氏の援助を得て武具に必要な皮革業を営み産をなした。
  紹鴎は若い頃より歌道を志し、24歳の時に上洛、27歳のとき,連歌師印政の手引で当代随一の古典学者三条西実隆と対面。以後実隆の死ぬ35歳になるまで古典と和歌を学ぶ。
  また、歌道を研究するかたわら宗碩ら当代の著名な連歌師にも親しんだ。
  茶の湯は宗悟・宗陳らに学んだが,これは村田珠光系の藤田宗理につらなる能阿弥以来伝統の書院茶の湯の系統であった。実隆から歌道の極意ともいうべき定家の『詠歌大概之序』の講義を聞き、茶道の極意を悟ったという。戦火を避け31歳のとき堺に帰り、剃髪して紹鴎を号し茶の湯に専念する。
  のち堺の大林宗套から一閑居士号を受ける。紹鴎は、珠光が理想とした侘び茶を完成させた茶人であるが、足らざることに満足し、慎み深く行動することを説いた。そのため、貴族趣味の書院茶をさけ、藁屋根の四畳半に炉を切って茶室とし、唐物の茶器のかわりに信楽、瀬戸などの日常雑器のなかから茶道具を選んで使用したのである。
  茶の湯とは、それを行なう空間、道具よりもまずは心の持ち方であることを自ら実践し、晩年は京都四条夷堂のとなりに茶室大黒庵を設け,静かに茶の湯の教えをつづけた。
  三畳・二畳半小座敷の創作は紹鴎の茶を象徴する。香道でも一家をなした。
  遊興や儀礼のひとつであった茶の湯に侘びの精神を吹き込み、「冷え枯れ」という連歌の美学を理想として、茶道中興の祖といわれる。
  また紹鴎は、定家の有名な歌「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」のなかに草庵の侘び茶の理想を見いだしたのであった。


 
<<Back     Return    Next>>