茶の湯の歴史
6.  千利休
7.  利休の後嗣
8.  千家の再興
9.  千宗旦
10.  宗旦とその息子たち

茶の湯前史
唐の時代に茶聖と呼ばれる陸羽(りくう;733〜804)が書いた 『茶経』 には 「茶之爲飲、發乎神農氏」 とあり、喫茶は神農(しんのう;紀元前2780年頃)に始まるとしています。また神農は『食経』を著し「荼茗久服、令人有力ス志。(荼茗久しく服すれば、人をして力あらしめ、志を悦ばしむ)」との記載があったとしています。
『神農本草経』 には 「神農嘗百草、日遇七十二毒、得荼而解之」(神農が100種類の草を食べて、ある日72種の毒に冒されたが、茶で解毒する事ができた)と記載されています。

『神農本草経』 は、2世紀後半には原型が整理されていたと考えられていますが、後代になると、薬数や条文などに相違のある多くの伝本が生じていたらしく、陶弘景((とうこうけい;456〜536)が、西暦500年前後に、当時伝えられていた古書をまとめ、計730薬の『神農本草経』 3巻を編纂します。その上巻は凡例と薬物論である序例、中・下巻は薬物の各論で、玉石・草木などの自然分類中に上中下の3品分類が併用されており、本来の『神農(本草)経』から採用された365薬とその条文は朱筆で、『名医別録』 という少なくとも730薬以上を収録していた薬書より引用した365薬と条文は墨筆で記し、両者が区別されていました。 陶弘景はさらに全体にわたり自注を加え 『本草集注』 3巻とし、のち7巻本に改められました。

周公(〜BC753)の 『爾雅(じが)』 と言う辞書に 「荼は苦菜なり」 「〓(木賈)が苦荼なり」 という記載があり、郭璞(かくはく:276〜324)の『爾雅注』には「樹小似梔子、冬生葉、可煮羹飲。今呼早取爲荼、晩取爲茗、或一曰〓(上艸下舛)、蜀人名之苦荼」とあります。
孔子(BC551〜BC479)が古来の詩のなかから300編を選んだと伝えられる中国最古の詩集『詩経』に「誰謂茶苦、其甘如斉」と茶の記述があり、晏嬰(あんえい;〜BC500)の 『晏子春秋』 には 「食脱粟之飯,炙三弋五卵,茗茶而已」 とあり、この時代に茶がある程度の広がりを見せていたことがわかります。
王褒(おうほう)の、漢代の神爵三年(BC59)正月十五日という日付のある 『僮約(どうやく)』(奴隷との契約文)に「烹荼盡具(烹茶、具を尽くす)」(茶を煮る道具を整頓すること)、「武陽買荼(武陽で茶を買う)」(武陽で茶を買うこと)とあり、武陽まで荼を買いに行くことが奴隷との契約文に入っていることから、既に当時、茶が商品となっていたことがわかります。

三国時代(220〜280)の魏の国の張輯(ちょうしゅう)の著した 『廣雅(こうが)』 という字書には、「荊巴間、採葉作餅、葉老者、餅成以米膏出之。欲煮茗飲、先炙令赤色、搗末置瓷器中、以湯澆覆之、用葱、姜、橘子〓(上艸下毛)之。其飲醒酒、令人不眠。」「刑巴(けいは)の間、葉を採り餅(へい)と作す、葉の老いたるものは、餅成するに米膏(べいこう)を以って之を出(つく)る。、茗を煮て飲まんと欲すれば、先ず炙(い)りて赤色ならしめ、末に搗(つ)きて瓷器(じき)の中に置き、湯を以って澆覆(ぎょうふく)し葱・薑・橘子を用いて之を混ぜる。其れを飲めば、酒を醒まし、人を眠らざらしむ。」(荊(荊州、湖北省)と巴(四川省重慶地方)の間では、葉を採集して餅を作る。老いた葉は米の糊で固めて餅にする。茗を煮て飲もうとするには、まず赤色になるまで、火で炙り、、臼で搗いて磁器に入れ、お湯で漬して戻し、葱、生姜、みかんの皮を混ぜる。これを飲むと、酒の酔いが醒め、眠れなくなる)というように、茶葉を餅状に成型し、飲む時は、まず臼で搗いて粉末にして、それを磁器の器に入れ湯を指し、薬味をいれて飲むようです。これは後述する 『茶経』 にいう飲み方とあまりかわりません。

唐代(618〜907) になると、中国全土に広まり、一般大衆の間にも喫茶の風が浸透し、玄宗の開元年間(713〜41)のころから、長安の街には茶房が現れ、晩唐には郷貢進士の王敷が『茶酒論』という、擬人法で茶と酒に各々の効能を述べさせ、優劣を争わせるという滑稽本を著すまでになっていました。
そのようななかで、陸羽によって上元元年(760)前後に 『茶經』が著されます。「茶者、南方之嘉木也」(茶は、南方の嘉木なり)で始まる茶経は、唐代と唐代以前の茶に関する知識を系統的にまとめたもので、宋代の陳師道(1053〜1101) が 『茶經序』 に 「夫茶之著書、自羽始、其用於世、亦自羽始。羽誠有功於茶者也。」(茶について本を著すのは陸羽から始まる。茶が世に使われるのも陸羽から始まる。陸羽は誠に茶の功労者だ)とあるように、陸羽は「茶聖」「茶神」と尊ばれるようになります。
わが国においては、仏教の伝来とともに喫茶の風習を早くから受け入れたと思われ、奈良時代(710〜84)の『正倉院文書(しょうそういんもんじょ)』に「荼(と)十五束」や「荼七把」などの文字があります。
一条兼良(1402〜81)の『公事根源(くじこんげん)』に、天平元年(729)聖武天皇が「百人の僧を内裡に召し、大般若経を講ぜしめ、第二日目に行茶の儀と称して茶を給う」とあり、『東大寺要録』に行基(668〜749)が「諸国に堂舎を建立すること四十九ヶ所、並びに茶木を植う」とあります。
延暦24年(805)に唐から帰朝した最澄が茶種を唐より持ち帰り比叡山の麓・坂本の地に植えたという伝説(『日吉社神道秘密記』)や、天保4年(1833)に書かれた『弘法大師年譜』 には「大師入唐帰朝の時、茶を携え帰って、嵯峨天皇に献ず」とあり、大同元年(806)に帰朝した空海も中国から茶を持ち帰ったことが伝えられています。
正史に現れたものとしては 『日本後記』に、弘仁6年(815)4月 嵯峨天皇(786〜842)に大僧都永忠(だいそうずえいちゅう;743〜816)が近江の梵釈寺において茶を献じたことが、「廿二日、近江国滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠、護命法師等、衆僧を率い、門外に迎え奉る。皇帝輿を降り、堂に上り、仏を礼す。更に梵釈寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。皇太弟および群臣、和し奉るもの衆し。大僧都永忠、手自ら茶を煎じて奉御す。」と記されています。嵯峨天皇は同6月に令して、機内および近江・丹波・播磨などの諸国に茶を植え、毎年献上することとしています。
弘仁5年(814)撰上の嵯峨天皇勅撰漢詩集『凌雲集(りょううんしゅう)』に「夏の日に左大将軍藤冬嗣の閑居院」と題された御製の詩の一節に「詩を吟じて厭わず香茗を搗く、興に乗じて偏に宜しく雅弾を聴くべし」とあり、 『文華秀麗集』(818)には、大伴親王(後の淳和天皇)が詠まれた詩の一節に「琴を提げて茗を搗く老梧の間」とあり、天長4年(827)の『経国集』には、嵯峨天皇の宮女が「出雲臣太守の茶歌に和す」 として詠んだ詩には 「山中の茗、早春の枝。萌芽を摘み採って茶とする時。 山傍の老は愛でて宝となし。独り金鑪に対い炙(あぶ)り燥(かわ)かしむ」、などと当時の上流階級が茶を愉しんでいる詩が残されています。

 
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