|
茶の湯の歴史
|
|
6. 千利休
7. 利休の後嗣
8. 千家の再興
9. 千宗旦
10. 宗旦とその息子たち |
|
茶の湯の始まり
|
日本における茶の湯は、鎌倉時代に日本臨済宗の開祖栄西(1141−1215)が臨済禅とともに抹茶法を伝えたことに始まるということになっています。
『吾妻鏡』の建保2年(1214)2月4日の条に、「将軍家(実朝)聊か御病悩。諸人奔走、但し是れ若しくは去夜、御淵酔の余気か。爰に葉上の僧正(栄西)、御加持に候するの処、此事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一戔召し進めらる。而して一巻の書を相い副え、之を献じ令しむ。茶徳を誉める所の書也。将軍家其の感悦に及ぶ。」
とあるように、鎌倉幕府の三代将軍・源実朝が二日酔いに 悩んでいた折に一杯の茶を進め、 その折に『喫茶養生記』
も献じられたとあります。
|
同書の「六者、明調様章」に、「見宋朝焙茶様、朝採、即蒸、即焙之。懈怠怠慢之者、不可為事也。焙棚敷紙。紙不焦許誘火入、工夫面焙之。不緩不急、終夜不眠、夜内焙上。盛好瓶、以竹葉堅閉、則経年歳而不損矣。
(宋朝にて茶を焙る様を見るに、朝に採って即ち蒸し、即ち之を焙る。懈怠怠慢の者はなすべからざる事なり。焙る棚には紙を敷く。紙の焦げざる様に火を誘い、工夫して之を焙る。緩めず。怠らず、終夜眠らずして、夜の内に焙り上る。好き瓶に盛り、竹葉を以て堅く閉じれば、則ち年歳を経ても損ぜず)」
とありますが、これをみると基本的なところは現代の碾茶(てんちゃ:これを石臼で挽くと抹茶になる) の荒茶(あらちゃ:茎や葉脈を取り除く精選前の茶)の製法と同様です。
|
ここに見える製法は、千利休と同時代に日本に滞在した宣教師ジョアン・ロドリゲス(Joao
Rodriguez, 1561-1634)が『日本教会史』のなかで記述した、宇治における碾茶(てんちゃ=抹茶にひく前の葉茶)の製法とも基本的には同様のようです。
それによると、焙炉(ほりろ)は蓋(ふた)のない深い木製の箱ともいうべきもので、中で炭をおこす。それに灰をかぶせて火勢を弱め、上には細竹の格子をかけて厚紙を敷き、蒸した茶葉を投げ込んで、焦がさないように絶えず紙を動かしながらゆっくりあぶる、とあり、栄西の見たであろう製茶法が千利休の時代と同様であったとはいえるようです。 |
しかし、『喫茶養生記』
の「一、喫茶法」には、「白湯、只沸水云也。極熱点服之、銭大匙二三匙、多少随意、但湯少好、其又随意云云。(白湯、沸いた水をいうなり。極めて熱きを点て之を服す。銭大の匙にて二・三匙。多少は意に随う。但し湯は少なきを好しとす。其れも又意に随う云云)」とありますが、粉末を入れて湯を注ぐ飲み方は、抹茶のみならず餅茶も同様ですので、この記述だけでは抹茶か餅茶かは分かりません。茶筅の使用も確認は出来ません。 |
しかし、文献上茶筅が登場するのは北宋徽宗皇帝の『大観茶論』(1107年)で、栄西の入宋の前であり、このころまでには、抹茶を攪拌し、泡立てるための道具として唐代の竹夾(ちくきょう=竹ばし)、北宋の茶匙(ちゃさじ)にかわって、茶筅が使用され始めたことが窺えます。
栄西が 茶筅をもって茶を建てていたとしても矛盾はありません。
ただ、 南宋の『茶具図賛』(1269年)には「竺副帥」として茶筅の絵が載せてありますが、これは現在あるいは千利休の時代の茶筅とは形状が異なります。現在私たちが使っている外穂・内穂に分けられた茶筅は、村田珠光の依頼で高山宗砌が開発したといわれています。利休もこの形状の茶筅を使っています。
仮に栄西が 茶筅を使って抹茶を建てたとしても、それは利休時代のものとはかなり趣を異にしたものだったでしょう。
|
栄西が創建した建仁寺では、毎年4月20日の栄西の誕生を祝する法要(開山降誕法要)に「四頭(よつがしら)茶会」と呼ばれる茶会が開かれます。四頭とは「4人のお正客」を置くことからつけられ、1人のお正客につき8人のお相伴がつくため総勢36人で行われます。
大方丈の室礼は、客殿の正面に、栄西の頂相を本尊として、脇絵としては左右に水墨画の「龍虎図」の三幅対がかけられます。前卓には、香炉・花瓶・燭台の三具足を飾り、部屋の中央の卓には大香炉が置かれます。
四人の正客と相伴客が部屋の周囲に敷かれた畳に着席すると、まず侍香の僧が献香し、つづいて「供給」と呼ばれる四人の僧が、すり足で入ってきて縁高に入れられた菓子とあらかじめ茶の入れられた天目茶碗を順次客に配ります。そののち僧は浄瓶(ジンビン)の先に茶筅をはめたものを両手で持って入室し、正客の前では胡踞(左立膝の姿勢)低頭して、天目台にのせた茶碗を客に持たせたまま、茶筅を注口から抜き、茶筅横にして注口にあてがい、浄瓶から天目茶碗に湯を注いだあと、浄瓶を左手で持ったまま右脇下に抱え込むようにして右手の茶筅で茶を点てます。相伴客の前では立ったまま中腰で同じように点てます。客も天目台ごと茶を喫します。
仏前飾りがなされ、立ったまま点茶を行なう茶礼は、禅院茶礼の古い形態だと考えられています。
ただ、栄西がこのようにして茶をたてたか否かはわかりません。 |
禅院における喫茶儀礼は、栄西に師事し、その後渡宋して禅宗の一派である曹洞宗を開いた道元が、喫茶、行茶、大座茶湯(だいざさとう)などの茶礼を制定することにより成立したといわれています。 |
|
|
|
栄西(えいさい) |
栄西、 1141〜1215(永治1〜建保3) 栄西は諱で道号は明庵(みんなん)。建仁寺の開山。葉上(ようじょう)房,千光法師とも称した。備中吉備津宮の神主・賀陽(かや)氏に生まれ、11歳で中吉備の安養寺静心に学び、14歳で得度、18歳で叡山の有弁のもとで天台を学び、ついで伯耆の大山で密教を学び、仁安2年(1167年)4月に宋に渡り、天台山・阿育王山を訪ね、南宋禅にも触れて同年9月帰朝,天台の新註解書60巻を将来した。
文治3年(1187)再度入宋,臨済宗黄龍派の虚庵懐敞(きあんえしょう)に参じてその法を嗣ぎ、建久2年(1191)帰朝。このとき、茶の種を求め、まず肥前国霊千寺石上坊に植え、のち背振山に移植し、栽培を奨励した。
建文6年(1195年)に博多に、我国最古の禅寺である聖福(しょうふく)寺を創建し、北九州に禅宗を拡めた。
比叡山訴えにより、朝廷は建久5年(1194)禅宗を禁じた。そのため、上京した栄西は建久9年(1198年)『興禅護国論』3巻を著して反論したが,叡山側の迫害を避けて鎌倉に下り,将軍源頼家や北条政子の帰依を得て寿福寺を建立、ついで建仁2年(1202)に頼家の本願によって京都に建仁寺を創建したが、叡山を憚りその末寺とし、かつ台密禅三学兼修の寺とした。建永2年(1207)茶種を栂尾の明恵上人高辧に送る。
建保3年(1215年)6月5日示寂。 |
|
|
『喫茶養生記』(きっさようじょうき)
|
栄西が著した医学の書。上下2巻。上巻では茶について、その名称(表記)・樹形・効能・茶摘・調製を述べている。養生とは、五蔵を健全に維持することだが、五蔵の好む五味(酸・辛・苦・甘・鹹(かん))のなかで、とくに心臓を強くする苦味が摂取しにくいので、苦味を補給する茶を飲むことが必要と説く。下巻では、飲水病・中風・不食病・瘡病・脚気の5種の疾病をあげ、いずれも桑によって治癒させうると説く。桑粥・桑煎湯・桑木の屑を酒に入れ、桑木を口に含むなどの方法である。このため別に「茶桑経」とも呼ばれる。なお、『吾妻鏡』のいう将軍実朝に献じた書が、ただちに『喫茶養生記』とできるかについては議論がある。 |
|
|