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小諸は、島崎藤村が、青年期の約6年間を過ごしたことによって、多くの人達に旅情を思いいだかせる、知名度の高い地となりました。その島崎藤村が小諸へ来て田舎教師になるきっかけとなったのが、小諮義塾という学校であり、塾長は、木村熊二という牧師でした。木村は、藤村の共立学校時代の英語の牧師で、牧師として藤村に洗札を授けたり、人生の煩悶に適切な指針を与えた人物でした。木村熊二は、幕臣で、幕末、勝海舟の配下にあって明治維新を迎えますが、明治3年森有礼の一行に加わって米国にわたりました。そして、ミシガン州の大学を卒業して、約19年後に、牧師として帰国しました。帰国後、東京では、明治女学校を創立したり、旧訳聖書の翻訳に携わったりしましたが、明治25年に長野県入りして、佐久での伝道活動に入りました。その頃、小諸の8人の青年たちの熱心な招きに応じて、明治26年に中等学校である小諸義塾を創立しました。始めは、主に木村一人が中心の私塾の形態でしたが、徐々に塾生がふえて、それに応じて木村の熱意に賛同する町民もふえてゆきました。その結果、小諸町から、さらに郡からも補助金が出るようになりました。また町民の奇付による校舎も建てられました。明治32年には私立学校としての認可がおり、規模も大きくなり、学校としての形が整いました。この頃に、教師として、島崎藤村や、鮫島晋、三宅克巳といった人材がそろい、また、町からも、井出静という人望のある退役軍人等が加わり、地方私学としては大変特徴をもった学校が形成されてゆきました。また、明治34年には、女子学習舎も設置されます。自由主義、人格養成の教育がめざされ、塾生による講演会、特色ある修学旅行、フルベッキ、徳富蘇峰、内村鑑三といった、木村の友人達による講演会等、地方には珍しい個性ある教育が実践されました。しかし日清日露戦争の時代、軍国主義や殖産興業政策のもと、国家主義教育を押し進めようとする時流や、それを支える人脈のカには抗することができず、また、木村が牧師であったことや、強い性格も関係したのか、財政の多くを補助全に頼っていた小諸義塾は、明治39年、補助金をたたれて、歴史からその姿を消しました。
このような小諸義塾の姿をみることのできる記念館が、小話市と小諸義塾の会の協カによって、この2月3日に開館しました。病院として旧小諸義塾本館を利用していた田村和夫先生から、建物が寄贈されたのを機に、それを元あった場所の程近い地に移築復元して、小諸義塾記念館としました。
●休館日/11月〜3月の水曜日
●TELO267・24・0985
懐古園の三の門を見て、立派な門だなあと思いながらが、通り過ぎるよりも、この門が、江戸時代に日本最大級の台風によって流されてしまって再建されたもので、現在国の重要文化財指定を受けていることとか、明治までは、板葺きの屋根であったこと、門にかけてある懐古園の額は徳川16代の家達(いえさと)によって書かれたものであるとか、そうしたことを知りながら散策したほうがずっと面白いのではないでしようか。歴史と文化の町小諸を広く知ってもらうために小諸観光ガイド協会が活動を開始しました。23名の研修を終えた案内人が、それぞれに個性あるガイドを行おうと、さらに勉強を進めながら、申込をお待ちしています。案内のコースは2種類あって一つは、懐古園(三の門−水櫓−二の丸−紅葉橋−本丸−馬場−水の手台−藤村詩碑)、一つは北国街道(本陣−鍋蓋城−桝形−本町−光岳寺−海応院−藤村旧棲地碑−大手門)です。希望に応じて、二つをミックスさせることもできます。ガイドにかかる時間は1時間半から2時間くらい。ご希望の方は、小諸観光案内所(TELO267・22・0568)へ、1カ月前までにお申し込み下さい。案内人一人につき、実費4、500円がかかります。
●収蔵庫/建設主・荒町和合会。設計者(株)木守工務店。
●工場/建設主・(株)大西製粉。設計者(株)東浜設計。
●医院/建設主・田村医院。設計者・甘利享一建設設計舎。
●店舗/建設主・(株)五屋。設計者・〈株)オズグリエイトジヤパン。
当小諸宿の会会員の中棚荘が、佐久地域景観賞を受賞した。中棚荘は、昨年春にも「日本のホテル旅館百選、和風の宿の部」でも特別賞を受賞している。
昨年10月から11月、4回にわたり開催された「小諸ふ−ど塾」は、毎回満員の盛況で、好評のうちに終わった。講師は、料理研究家土井善晴、作家嵐山光三郎、建築史家藤森照信、作家猪瀬直樹の各先生。
旧北国街遺沿いの本町にお店がある。店舗は、明治7年に建てられた旧小諸銀行のドッシリした建物。骨董店を始めたのは明治26年頃で現在の主人は4代目という。時代を感じさせる造りの店内には、懐かしさを思い起こさせる品々が、ところ狭しと集められていて、まるでその時代に呼び戻されたみたい。鎧(よろい)のような、いかめしいものから、古時計、そぱちょこ、伊万里などの名品珍品がずらり。ざっとその数は3、000点。かんざし、お皿など日用品、装身具の小物などは300円位からあるので、自分だけの堀り出しものを探す楽しみを味わえる。
●営葉時間/9時〜18時頃まで
●原則として年中無休
●TELO267・22・0268
重要文化財に指定され、近く復元の大手門を中心に、園内に位置する繭蔵などを生かして、千数百坪の大手門公園の造成工事が着々と進んでいます。今後公開される間屋本陣と、三の門を合わせた三つの重要文化財回廊の散策は小諸ならではのものとなるでしょう。
5月には、「M渥美清、こもろ寅さん会館」が開館します。これは、映画〃男はつらいよ〃の「サラダ記念日」の舞台に小諸がなったことがきっかけとなって実現しました。主人公フーテンの寅さんの資料が一堂に展示され、映画も楽しめます。開館すれば、小諸を代表する施設の一つになるでしょう。
さらに、島埼藤村も教鞭をふるった、小諸義塾本館が、懐古園横に資料館として移築復元され、現在工事中です。展示される資料の収集も、塾長木村熊二の研究も進んでいます。
また、今秋、上信越道小諸インターの開通が予定されており、それに向けて、多くの団体が小諸をより広く知つてもらおうと、数多くのイペントを競う「イベントまつり」が計画されています。
その他、町並み案内人制度や、資料館、美術館等の企画が目白押しで、今後の進展が多いに期待できます。
現在の大手門を作った仙石秀久は、石川五右衛門をとらえた豪傑との伝説を持つ、讃岐二十数万石の戦国武将でした。いったんは、豊臣秀吉の勘気にふれて浪人になってしまいますが、この後再び取り立てられ、五万石の領主として小諸入りします。本来の気性からなのでしょうか、思い切った城郭造り、城下町造りを行い、現在の小諸の姿を整えました。その、唯一の遺構といってよいのが慶長年間に建設された大手門です。
大手門は四の門(しのもん)ともいわれ、城の内側から四番目の、一番外側にある小諸城を代表する戦国時代の豪壮な特徴をもつ城門です。門は江戸時代の城郭様式が完成される以前の過渡期の特徴を持っており、寛保の大洪水で倒壊して、明和年間に再建された江戸期の様式をもつ三の門と良い対比ができます。特徴の一つとして、石垣と門が一体化しておらず、門と石垣の間に空間があり、これを逆三角形の二重の厚い板でふさいでいるということがあります。また桃山時代の御殿や寺院建築の様式を取り入れているということがあり、格子や、懸魚、木鼻にそれが見られます。更に、二階が、畳敷きであること、一層の上に庇屋根が無くて、二層が張り出して、庇の代わりをしていること、二層が独立していて、向かって左の門内の石垣上から入るようになっていること、等々たくさんの特徴があります。
大手門は、明治以降は、大手館という会席料理店になったり、小諸義塾の教室や、雨天体操場として使われたりして、最後は質店の店舗となっていましたので、門扉は取り外されて、楼の下の通行部分は改造されて、二階建の住宅になっています。従って、復元に当たっては、その部分は取り払われますので、現在の姿とは大きく変わることになります。こうした多くの特徴や、三の門との相違点、そして現在の姿を、是非よくご覧になっていつて下さい。
●新装なった中棚荘が、この2月、プロが選ぶ、日本のホテル旅館百選、和風宿の特別賞を受賞しました。●昨年9月に、市川健夫信州短大学長が委員長になり、本会が委貝となって開始した、「小諸町並み賞」で、■中央道路、蒲原さんの改修した土蔵(木守工務店)■本町、武重医院駐車場(M守谷商会)■古城、荻原こんにやく工場(東浜建設設計事務所)■古城、中棚荘(奥村聖都市建設設計事務所)の4カ所が、受賞しました。
●咋年11月に、市や本会ほか、多くの会が主催、後援となって「小諸重要文化財フェスタ」が、開催されました。内客は、北国街道の町並み案内の「小諸宿歴史讚歩」、重文、間屋本陣を会場にした、畑山博、井出孫六両先生による「小諸を語る」講演会。重文、大手門開放。そして、重文、三の門を会場にした、「おおたか静流コンサート」の4部構成で好評を博しました。
天明の頃、関西より「淀鯉」が当地に持ち込まれ、その後改良を重ね現在の「佐久鯉」に至つたといわれております。背肉が盛り上がり丸々と太った体形で、肉質の良いのが特長です。この佐久鯉の甘露煮、うま煮、鯉こく、味噌漬などの商品を販売しています。もちろん、すべて自家製のオリジナル商品です。また、店頭に水槽があって、自分で選んだ鯉を目の前て調理してもらうこともできます。造りたての「あらい」を帰りの電車や車の中で食べるという観光客もおおいようです。
今回は、市内に残る島崎藤村のゆかりの地を散策してみましよう。詩人から小説家へと大きな転身を遂げたこの地には、藤村の残り香を五十年を経た現在も楽しむことができます。さあ、ご一緒にでかけましよう。
初代茂十郎は、若い頃の横浜での投機的商売の失敗を糧に、暖簾分け(67店)、正札販売といった地道で合理的な、佐久商人の代表的商売を営みました。その様子は、「客に呼ばれて行って一座した時でも無駄には酒を飲まなかった−『酒は飲むだけ飲めば、それで可いものです』」と、「千曲川のスケッチ」に書かれています。
小諸義塾の体操教師だった、大井小太郎の実家です。蕎麦打ちの時は藤村を招待したそうですが、藤村はいつも、「御礼 島崎春樹〕と書いたのし付きの卵をもってきたといいます。そののし紙をとっておけばよかったとは、当主の保男氏の話しでした。
今のさくら銀行のところにあり、「千曲川のスケッチ」に描かれた「御辞儀」の舞台となった、小諸で一番の料亭でした。藤村の教えていた小諸義塾の塾長だった、共立学舎時代の恩師木村熊二と、小諸の医師会とがもめたことがありました。義塾の教頭役の藤村が代理ということで、岡源に出掛けると、斡旋にたった警察署長が自ら医師会に頭を下げたので、藤村も仕方なく頭を下げてきました。その結果を報告したところ、却って校長にそんな御辞儀には及ばなかったと言われて、損な役を勤めたものだと嘆いたという話の舞台です。
馬場裏にある藤村旧棲地の碑は昭和28年に、小諸の藤村会の人達の尽力で建設されたのですが、正確には旧棲の地は今の関医院に向かいあった、塀の内側あたりにありました。その家はその後、新酔月という料亭になり、さらに移築されて、現在野沢の貞祥寺という曹洞宗の古刹の境内にあります。
島崎春樹の名前の残る、紙店らしい見事な大福帳(今でいう売掛帳です。)がありました。今は懐古園内の藤村記念館に展示されています。「幅広な方の罫の入った用紙」と藤村は書いていますが、この店で買った原稿用紙に、「破戒」等が書き込まれたのでしょう。「破戒」は小諾では約半分が執筆され、東京に移ってから完成されました。大和屋紙店には藤村と晩霞の合作の色紙も残っています。
画学生だった若き頃の青木繁、坂本繁二郎らが、画塾での先輩で小諸義塾の教師をしていた丸山晩霞と、高名な藤村に会いにきました。両者と交流はしたものの、つるやホテルに約一月も金を払わずに居続け、ついに青木が人質となって、坂本が金を用意してきて無罪放免されるという結果となりました。当家には藤村の「千曲川旅情のうた」の二連の軸や、若山牧水と義塾の絵の教師だった、丸山晩霞との合作の色祇などが残っています。
代々、本町の庄屋で、五右衛門を襲名していました。「破戒」の出版を援助し、藤村のよき理解者だった神津猛という志賀村の文人肌の若き銀行家へ、この家から、てう(ちょう)が嫁いでいました。そうしたこともあって、塩川家の年下の叔母べん、ふくは、藤村に家庭教師をしてもらっていましたし、藤村の子供もよく遊ぴに来るという付き合いをしていました。
当時はつるべ井戸だったようですが、明治女学校で近代的女子教育を受け、函館で手広く網問屋を営んでいた秦家から嫁いできたばかりの新妻冬にとって、水運びはさぞかし大変なことだったでしょう。今は、関医院の所有になっており、またこの井戸の水を飲むと文才が湧くということで、ここを訪れる人達の水を汲んでいる光景がよく見られます。
この小山家の二代前の久左衛門は、小諸義塾の有力な後援者で特に、後期は物心両面に木村熊二や藤村らを支えました。その久左衛門の長女喜代野は義塾の女子学習合を卒業しましたが、嫁ぎ先の茅ケ崎で(関東大震災のため死去し、それをいたんたた藤村は追悼文を書いて霊に棒げました。三男敬三は画家を目指して、既に東京に移った藤村を相談のために訪間しますが、藤村の励まLで、渡仏を決意しました。そして敬三は、後年文化勲章の重厚な油絵画家となります。
小説家を目指した藤村が、にごり酒を傾けながら、のら仕事帰りの農家の人達の話を根掘り葉掘り聞いて小説の材料にしようとしたところです。余りしつこく聞いてくるので、警察の回し者かと疑われたりしたこともあったといわれています。請いに応じて、藤村は、最初は紙に、その後は、現在の板に「一ぜんめし揚羽屋」という看板を書きました。当時は豆腐も作っており、井までも豆腐料理が名物です。
昨年、日本ナショナルトラストの調査で風穴の原因が解明されました。それを御紹介しましよう。この風穴内部の平均気温は0℃で、これは、アラスカ南岸の気温に相当しており、富士山でいうと5合目の標高約25OOm付近のものなのだそうです。そしてこれらの地に共通するものは、永久凍土なのだそうです。そしてかつてこの地域に大規模な地すぺりが起きていることも、永久凍土の徐々に進む融解によつてできる地下の空間が原因であるということで説明ができるのだそう℃す。養蚕王国であつた長野県には、かつて119の風穴があり(明治43年の調査)、主に蚕の卵のかえる時期の調節に使われていました。この数は全国257ケ所の実に46%にのぼっていたのだそうです。蚕糸産業の衰退しだ現在、そうした利用方法はなくなつてしまいました。そこで、報告書では、風穴を利用した、風穴博物寵、風穴レストラン、また「小諸風穴漬け」といつた漬物の商品化を提言しています。
藤村は千曲川のスケツチにこの大和屋の娘、琴路さんを登場させています。夏祭りの前夜で本町の通りには紅白の提灯が飾られ、その灯りの陰で紙屋のK、琴路さんに逢ったと書いています。馬場裏の住まいから、一・二分、原稿用抵を脇に抱えた藤村の和服姿が髣髴としてきます。店内には沢山の種類の和紙が置いてあります。友禅和紙、手紋和紙、金銀揉紙、天具帖、雲竜和紙、洛水和紙‥‥等。淡い色あいの和紙からは平安の昔貴族たちが競って和紙を選び、好きな人に自分の心を詠んだ和歌をその和紙に書いて送つたという雅な風習が浮んできます。落ち着いた色彩の町を散策し、好きな和紙に、さらさらと心を託した手紙など、書いてみては、いかがでしようか。Y・T記
一宿一飯の恩義‥‥など、昔から宿屋と旅人の話しには事欠かない。市内本町にあるつるやホテルにも数多くのエピソードが残っている。その中から、藤村や晩霞が関係したハナシをひとつ‥‥
旅館というとこうには、多くの人が訪れて宿泊するという性質上、色々な工ピソードが残つているものである。ここ「つるやホテル」にも多くの話が残されているが、その中の一つに、島崎藤村、丸山晩霞、青木緊、坂本繁二郎らが登場するものがある。その年は明治三十五年で、四人は、それぞれ、三十一歳、三十六歳、二十一歳、二十一歳と、みな青年時代である。藤村は明治三十二年に小話へ、恩師でクリスチヤンの洗礼を受けた木村熊二の招請に応じて、小諸義塾の国語と英語の教師として来ており、晩霞も三宅克巳の後任として小諾義塾の図画の教師として、明治三十五年始めから教壇に立っていた。そこへおしかけてきたのが、数年後「海の幸」という不朽の名作を残して三十歳で早世した、天才肌の青木繁と、八十八歳の天寿を全うして、質実で独自な油絵の境地を開拓していつた坂本繁二郎らである。この二人は晩霞もかつて学んだ、小山正太郎の指導した画塾、不同舎での後輩にあたり、同じ久留米市の出身で、性格の相反する同年の友人であつた。画学生の気楽さからであううが、小諸へ来る前に宿泊していた群馬の妙義山の宿を末払いのまま、先輩の晩霞とその同僚の藤村に会いに、青木達は小諸を訪れる。多分徒歩で碓氷峠を越えて来たのであろう。「つるやホテル」に残る当時の宿帳には十一月二十九日七時と記入されている。「画伯」と背伸びをして宿帳に記していたり、(しかも青木は、二十四歳と年令を水増ししている。高名な藤村や晩霞がそろって、二人を訪ねたりしているので、「つるやホテル」としても、うさんくさいと思いつつも、それ相応のはからいをしていたのであろう。当時、藤村は、詩人から小説家への転身をはかろうとしており「田舎者の心意気をお目にかける」という意気込みで、「旧主人」と「藁草履」という二つの小説を、同時に別々の雑誌に発表したばがりの時であつた。そして、それより前、干変万化する雲の様子を文章で「スケッチ」するといつた習作を試みており、また、ミレーの絵画には特にひかれていたようで、絵画に対する興味には大きなものがあつた。それだけに、絵画を目指そうとする若い人達との出会いは、自ら欲していたところもあつたように思われる。また、小諸義塾の授業中に小説にかけようとする自らの決意を生徒達に語るような藤村でもあつたから、多分この出会いの時は、絵画論に、人生論にと、話に花がさいたことだろう。青木らは、「つるやホテル」に、結構長く逗留していたので、藤村や晩霞に触発された視角からの、小諸周辺の数手くの写生を試みたことであろう。しかしいずれにせよ、「つるやホテル」としては、宿賃の未払いを許しておくわけにはゆかない。十二月下旬、坂本が、青木らを人質として小諸に残して妙義まで戻り、伯父から宿へ送金されていた金を、妙義での支払いと、小諸への送金にあてて、宿代を清算したようである。そうした次第で、「つるやホテル」には、青木、坂本らの自筆の宿帳が残つたのである。
湯っくり、湯ったり…小諸には湯量豊富で、効能扱群の6つの温泉があります。秋は紅葉、冬は雪、田舎料理に地酒…。これだけ揃えば言う事なし。6つの温泉めぐりなんて、もう極楽、極楽。●標高二千メートルの雲の上/高峰温泉●歴史と伝説の名湯/菱野温泉●藤村ゆかりの温泉/中棚温泉●名勝布引観音の地/布引温泉●清流干曲川のせせらぎ/湯の瀬温泉●名園懐古園のほとり/小諸温泉
小諾に「氷」という部落があります。なぜこんな名前がついたのでしよう。それは、この部落に風穴(ふうけつ)があるからです。それではその風穴とはなんでしよう。風穴という文字で感じられるように、それは、冷涼な空気の出てくる穴といつたものであると思つてよいでしよう。目本で一番膏名な風穴は、富士山麓にあるもので、規模も日本一ですが、ここ小諸の風穴は、温度の安定性や活用度などを考えると、それに次ぐといつてよいくらいの価値をもつものと言えそうです。氷には風穴が七つ現存していて、地□を掘り下げて出てくる地下の冷気を利用して天然の冷蔵庫として便用されています。中でも一番大きくて、活用されているのが明治七年と入□に書かれた看板をもつ土屋満さん所有の風穴で、三層構造になっており、明治期は、漬物の長期保存や、蚕種を保管して、夏秋蚕の飼育を順調にするために利用されていましたが、現在は、町の花屋さんが、花の鮮度を保つために使用しており、そのついでにといつた風情で、漬物も保管されています。内部の温度は極めて安定していて、年中三−五度に保たれていまず。これだけの低温ですので真夏にここを訪れると、冷気のため、白い蒸気が立ちのぼり、入□の外でも涼しさを体感することができます。そして最近日本ナショナルトラストの先生万の調査研究によつて、風穴の冷気発生の仕組みが解明されましたが、そのことについては次回に記すことにします。
創業は明治。その時代より和菓子の専門店として小諾駅前で営業をしております。主として〃くるみ〃を使つた和果子が有名で、「くるみの里」「くるみ鹿の子」は郷土銘菓としてお土産や御贈答に好評です。〃くるみ〃の産地は小諸附近より西で、日本の90%を生産しております。当店のくるみ菓子は地元の良質な原料を使い、更に高原蜂蜜などと合せて製造してありますので旅情をそそる味賞としてビッタリでしよう。和菓子の外に各種の小諸土産も扱つております。JR小話駅前0267-22-0545 営業時間朝8時〜夜7時半 年中無休です。